2012/06/05
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スポンサーサイト2009/12/31
207・チェロ弾きとの共通点
だれかに見せるための「縄」は、すべて「即興」である、ということについてそのつづき。
たとえば撮影の現場で、初めて会ったモデル女性に、初めて縄をかけ、数分間の接触で、相手が反応するのはどの部位か、というのを確かめる。
確認したら、そこに目標をおいて、ぐいぐいと縄で刺激していく。
これを即興と言わずして、何を即興と言うか。
相手の女性を裸にする。乳房が大きい。
この乳房に対し、どのように縄を加えて刺激的に見せるか。
見ている人間たちに、いかに官能的な衝撃を与えるか。
よし、この巨大な乳房の上から、タテに縄をかけ、乳房タテ割りの形にして見せてやろう。縄は細いほうが効果的だ。
そして実行する。即興である。
ひらめくと同時に私は縄をつかんで行動する。
巨大な乳房を前にして、私が縄を持ったまま、一分間考えていたら、カメラマンは困るし、会員諸氏は退屈する。
このときの一分間は長い。
一時間の長さに匹敵する。
時間をかけて考えてから縛り始めるのだったら、即興とはいわない。
相手の反応を観察しながら、つぎからつぎへと縄を手に取り、「カンドコロ」をおさえて、効果的に縛っていくところに即興の「妙」つまり、おもしろさがある。
縄がもたもたしていると、相手の女性も感じてくれない。自分の肉体に加えられる程よい圧迫感と、拘束されていくスピード感が、女性を陶酔させる。
相手のカンドコロをおさえる感覚的なひらめきは、すべて即興でなければならない。
ホンジンガー氏のチェロの即興演奏には、緊縛と同じリズム、呼吸、スピード感があると私は感じた。ホン氏は私の同士だ。
演奏が終わって緊張感から解放されたとき、私は思わず胸をそらし、両手を上げて深呼吸をした。
「こんどの例会、おれもがんばるぞ!」
と私は叫ぶように言い、左側のやや後方の席にいるシズちゃんカメラマンに笑いかけた。
ホン氏が、約二時間にわたる即興演奏を、一瞬のたるみもなくつらぬいたように、私もつぎの緊美研例会をがんばるぞ、という宣言であった。
「共通性、ありますよね」
と言ってシズちゃんは微笑し、なんだかうれしそうにうなずいた。Rマネが言う。
「ホンジンガーさんは、お客を意識して、お客に聴かせるためにチェロを弾いていたんでしょうか」
ホン氏は、客席に視線をむけることなく、自分だけの世界に閉じこもっているような顔で、一心不乱に弦をおさえ、かき鳴らし、おのれが弾き出す音色の中に没入していたのだ。
「お客を意識しているからこそ、あんなに汗をかいて、ウンウン、ふうふううなりながらがんばったんだろうよ。お客がいなかったら、あれほどムキになってやらないと思うよ。おれだって、だれかが見ているから一生けんめい縄をしごくのさ」
と、私はこたえた。
「だれも見ていなかったら、先生はやらないんですか?」
ときいたのはRマネだったか、シズちゃんだったか。北千住の街を雨に濡れて歩いた。
2009/12/30
206・音と縄の流れ
ホンジンガー氏のチェロの旋律は長くない。断続的である。単独の音を選びながら、激しい感情をこめて弾いているように思える。
いかにも即興という感じの、断片のつながりのような曲である。
音の高低の変化が結合して流れることを旋律というのだろうが、即興演奏の場合は、音と音とは断続しながらも、一つの美的意識、あるいは感動のもとにつながっていなければならない。
ホン氏のチェロ即興は、断続して流れながら、持続している。持続していないと、聴客の意識の中に空隙ができる。
ああ、むずかしいなあ。
やっぱり音楽を文字で説明するのは、私には苦手であります。
書いている私にはわかっていても、読んでいる人に伝わらなかったら、なんにもならない。
どうか、うまく察して、読んでください。
音と音がつながっていないと、いかに即興演奏といえども、いや、即興だからこそ、音楽としての感動を、客に与えることはできない。
空隙が十秒間でもあると、客は退屈する。
したがって演奏者は瞬時なりとも気をぬくことができない。気をぬいたら、「即興」の意味もおもしろ味も消滅してしまう。
つぎからつぎへと感覚をひらめかせて音を弾き出し、客の前に生み出しつづけなければならない。
さて、そこで、私の「縄」の場合だ。
映像撮影のカメラの前で、あるいは会員諸氏(この場合は緊美研の会員諸氏)の前で、モデルである女体を縛るとき、縄の動きは、当然、断続的である。
一本、二本と縄を使い、その断片のつながりで、「縛り」を完成に近づける。
その「縄」の流れは、断続しながらも、一つの美的意識、あるいは美的感動のもとにつながっていかなければならない。
わかりやすく書く。
つまり、こういうことだ。
はじめに、手首をつかんで背後にまわし、一つに縛る。
手首から胸へと縄をまわす。
完成到達前のその段階において、その一本だけの縄による表現だけで、一つの感動を与えなければならない。
二本目の縄で、女体の背後から前面へまわして乳房の下側を縛る。
この段階でも、縄はリズムとスピードをゆるめずに、刺激と感動を、見ている者に与えなければならない。断続的に二本の縄を使うが、流れは一つである。
三本目の縄からは、モデルの肉体および、心的な個性の相違によって、縛りは俄然、「即興」的な感覚を必要としてくる。
基本的なことをいえば、目の前にいるこのモデルの、どこに、どのように縄をかければ快楽の反応を見せるか、それを早急に発見、さぐりあてることが「演奏者」である私の任務である。
むかしから女体はよく楽器にたとえられるが、緊縛の場合は、まさしく楽器である。
よく鳴れば鳴るほど、いい音色が出ればでるほど、客にこころよい刺激を与える。
撮影現場のカメラ、そして緊美研の会員諸氏に見せるための私の「縛り」は、やはり即興である。
つまり、だれかに見せるための「縛り」は、すべて即興である。ああでもない、こうでもないと迷いながら、考えながら縛っている風景なんて、こんなマヌケなものはない。
2009/12/27
205・理屈では説明できない
シズちゃんカメラマンと、Rマネと、そして私の三人で、北千住へ即興ライブに行ったときのことを「ナイショ話」に書いた。
それを読んだRマネから、電話がかかってきた。
「先生、あのライブのあと、三人でしゃべり合ったとき、先生はチェロと緊縛の共通性について、もっと具体的に、こまかく分析されていましたよ」
と、Rマネ。
(Rマネは言葉に関して敏感な女性で、奥ゆかしく、恥ずかしがり屋で、私と二人だけでしゃべっているときでも「緊縛」なんて言葉を口から発したりはしない。そういえば、シズちゃんの口からも「緊縛」とか「SM」とかいう言葉をきいたことがない。ついでに言ってしまえば、マニアでもないくせに、マニア世界に卑しい好奇心を抱く人間にかぎって、やたらに「SM」とか「緊縛」などの言葉を平気で口にする。そして、ずうずうしく私たちに近づいてくる。崇高な聖域である私たちの世界のことをかんたんに口にするやからは、マニアではないのだ。私はその種の人間たちと接触する機会が多いので、いつも不愉快な思いをしている。というわけで、この文章の中でRマネが使っている「緊縛」という言葉は、じつは彼女は言っていない。言わなくても、私たちにはわかる。が、こういう文章に書く場合は、第三者にわかりやすく「緊縛」と言ったことにしておく。マニア世界というものは、こんなふうに言葉の表現一つにしても繊細な神経が往き交うのだ。このへんのところを、もうすこし、わかっていただきたい)
「そうかあ、あのときはたしかに、おれ、すこし興奮していて、チェロとサックスの即興ライブと、例会におけるおれの縄との共通性を、もっと具体的に、ああだこうだとしゃべったような気がするなあ。そしてシズちゃんもRマネも、うん、うん、そうだ、そうだわ、とうなずいていたような気がするよ」
Rマネが電話で言ってきたあの夜の私の言葉を、私はすこし思い出した。
だが、あのときははっきり分析し、わかっていたのに、いまはもうだいぶ忘れている。
北千住の夜から、もう一週間たっている。
だが、こまかい理屈は忘れたとしても、感覚的なところは、もちろんおぼえている。
即興演奏と即興緊縛(緊縛は大体即興にきまっているが)の共通性について、あの夜シズちゃんとRマネに対し、私はかなり熱弁をふるったが、この種の感覚的な細部を、文章にするとなると、やはりむずかしい。
ホンジンガー氏が、どういうテクニックであの細長い指先から、ダイナミックな音色をつぎからつぎへと紡ぎ出すのか、それを理屈で説明しろといっても、おそらく無理にちがいない。
同じように、私が縄で女体を縛っていく指先の感覚を、理屈で説明してくれと言われても、それは無理である。
つぎにこの女体の、どこをどうやって縛れば、美しい官能的な姿となって光り輝くか、それはやはり「縄のカンドコロ」をおさえること、というより他はない。
濡木痴夢男の弟子と自称する人が何人もいるそうだが、縄の「カンドコロ」をおさえて、指先ひとつで美醜の成否を賭ける感覚テクニックを、人に伝えようとしても、伝えられるものではない。
縄のカンドコロなどといっても、考えてみれば、じつにあいまいな言葉だ。この感覚を人に伝えようとしても、伝わるものではないだろう。伝えられた、と言ってるのは、しょせん当人が、そう思いこんでいるだけだ。
2009/12/25
204・ようやく気がついた
私は、じつは音楽については、もちろん嫌いではないが、熱烈なファンでもない。
音楽用語みたいなものも、何も知らない。
だからきっと、間違ったことを書くと思う。
どうか笑わないでいただきたい(いや、そうではない、笑っていただいて結構)。
北千住のコズミックソウルという店でのライブへ、シズちゃんカメラマン、Rマネ、私の三人が行った話のつづき。
トリスタン・ホンジンガー氏のチェロと、川下直広氏のサックスの即興演奏が一曲終わって、お客の拍手が鳴りやみ、休憩になったとき、私は椅子にすわったまま、ぐんと背筋をのばし、思わず小さく叫んだのだ。
「ようし、こんどの例会、おれもしっかりやるぞォ!」
それは、ホン氏のチェロ熱演に刺激されての叫びだった。私は両手まで上げていた。
すると、その私の声をきいたシズちゃんが、ふふふ……と笑い、
「共通性、ありますよね、先生」
私の顔を見て、低い声で言った。
シズちゃんの両隣にすわっているのは、知らない女性客だった。例会における私の「緊縛」と、チェロとサックスの演奏は、即興性において共通するものがある、とシズちゃんは私に言ったのだ。
知らない人の前では、私たちは「緊縛」などという言葉を、口にしない。
口にしなくても、私たちには、わかる。わかり合える。わからない人は、私たちの同志ではない。
「共通性があるどころか、同じなんだ。この即興の感覚は、まったく同じなんだよ。いやァ、まいったなあ」
ホン氏のチェロに私は圧倒され、感動していた。
背筋はのばしたが、椅子から立てないほどの衝撃をうけていた。
ホン氏の植物的とも思える細長い、筋張った指から、つぎつぎに紡ぎだされ、弾きだされる、即興でなくては表せない瞬間的な音、断続する音と音。
その低音と低音をつなぐ、つなぎ方の呼吸、テクニックには見えないテクニックが、「緊縛」の場合の私の呼吸、テクニックと同じように思えたのだ。
そうか、と私は思った。
私の「緊縛」は、つまり、「即興」だったのだ。
なんということだ。そのことに、私はいままで気がつかなかったのだ。
人に聞かれたとき、
「こんなもの、即興ですよ。かなりいい加減なものですよ」
と笑って気軽に答えていたが、あれはやっぱり「即興」だったのだ。
目の前にいる女性を縄で縛っていく、その行為が「即興」だったことに、私はいままで気がつかなかったのだ。
即興だと人には説明しながら、自分では即興ではない、と思っていたのだ。
ウソだろう、とあなたは思いますか?
いや、恥ずかしながら、ウソではないのです。
なぜ気がつかなかったのか。
それは、女体を縛るなんてことは「即興」的な行為にきまっているからですよ。
「即興」以外の何物でもないではありませんか。ああ、私のこの説明は矛盾している。矛盾だらけだ。どう言えばいいのか。
緊縛なんて私にとっては、なんの造作もない、あたり前の行為なのだ。いや、私は得意になってこんなことを書いているわけではない。ホン氏のチェロは私を混乱させる。
2009/12/24
203・即興演奏の感覚
「縄のカンドコロ」というテーマで、「緊縛」についてすこし突っ込んで書こうと思っていたのだが、いつのまにか話が横道に外れてしまった。
まあ毎度のことだが、自分でも気がつかないうちに、ちがう方向へいってしまった。
(結局、「縛り」のうまい・へた、そして、撮り方のうまい・へたは、「縄のカンドコロ」を、いかにおさえるか、その一点にかかっている。どんなにうまそうに縛ってみせても、照明をうまくやって撮っても、カンドコロがちがっていたら、マニア男性をボッキさせることはできない。結果的に、SMッ気の乏しい、残酷拷問我慢大会みたいな写真になってしまう)
で、話をもとにもどすことにしましょう。
このあいだ、シズちゃんカメラマンに誘われて、Rマネと私と三人で、なんと、北千住のコズミックソウルという店のライブへ行った。
はじめにシズちゃんがRマネを誘い、それからRマネが私を誘ったという経緯である。
私は早のみこみのそそっかしい性癖の人間なので、Rマネがそのことを私に伝えたときに、シズちゃん自身がライブに出演して、チェロを演奏するのだと思いこんでしまった。
シズちゃんは、じつはクラリネットを吹き、作曲もして、CDも出しているという。
クラリネットを吹くくらいだから、チェロもやるのだろう(二つの楽器はぜんぜんちがうけど)と、そそっかしい私は思いこんでしまったのだ。
それで、Rマネに誘われたとき、
「おお、いく、いく。おれ、まだシズちゃんのライブ姿って、見たことないんだ。見たい、見たい!」
勢いよく返事をしてしまったのだ。
ところが、ちがった。
出演するのは、トリスタン・ホンジンガーというアメリカ人のチェロ演奏家で、日本人のサックス奏者・川下直広と即興ライブとのことである。どうやら、ジャムセッションらしい。
「即興」というところが、私の興味をそそった。
即興って、ほんとに即興なのかな、と思った。即興でなかったら承知しないぞ。
店内はせまく、私とRマネは、何と、ホンジンガー氏のチェロ演奏を、目の前一メートル(といってはややオーバーかな。でも感覚的にはそれほどの至近距離であった)の椅子にすわって味わうことになってしまった。
シズちゃんは、小さなテーブルを一つはさんだ位置。
一曲が、長かった。
ホンジンガー氏は約一時間、チェロを弾きっぱなし、竹下氏は頬っぺたをふくらませてサックスを吹きっぱなしだった。重労働である。ホン氏の手の指は、靴の底みたいに厚くなっているにちがいない。
途中から、ホン氏の呼吸と、私の「縄」を操作するときの息遣いが一致してきた。弦を鳴らすホン氏の指と、女体を縛る私の手の動きが一体化してきた。
ホン氏の演奏は、まさしく即興だった。つぎの瞬間、どんな音を出して客と勝負しようか。それは感覚的な瞬発力にまかせるより他はないであろう。
私の場合も、つぎの瞬間、どんな「縄」で勝負すべきか。感覚だけが頼りの世界。
ホン氏は目の前の客だけが相手である。私は目の前のモデルと、それを取り巻く会員たちとの勝負となる。ホン氏は即興でチェロをかき鳴らし、私もまた即興で、瞬時のひらめきにまかせて女体を縛っていく。
2009/12/13
202・あってもないプログラム
モデルを縛り終えた私は、モデルから離れた位置に立つ。
モデルがいる場所を舞台とすれば、私は自分だけ舞台から下りる、ということである。
そして私は、自分のその「作品」を眺める。
「作品」を眺めるときは、無意識のうちに、たいてい最良の位置に立つ。
私の眺めるその位置が、カメラマンにとっても最良の位置だということは、同じスタッフで何度も撮影をしていると、大体わかってくる。
最良の位置というのは、最良のアングルということである。
(アングルが良いとか悪いとかは、どういうところで判断するのか、あとでゆっくり考えてみる。いまズバリかんたんに言うと、緊縛マニア男性をボッキさせるのが良いアングルで、何も感じさせないのが、悪いアングルである)
撮影現場で何度も一緒になって、おたがいに親しくなってくると、モデルを眺めている私の背後に接近してきて、私の肩にカメラを置いて撮るカメラマンもいる。
私の立っている位置が、最もいいアングルだからだ。
そういう場合、モデルは全身全霊を私に向けている。ということは、私のほうに心を預け、いいポーズになっているモデルは、冬木さんに限らない、ということでもある。
背後から肩の上にビデオカメラをのせられると、私はじっと立ったまま、動かないでいる。
ま、そういうことも「縛り係」のつとめの一つですよ。
私の好きなアングルから撮影しているということなので、私としては、それは大歓迎なのです。
ですから、緊美研の会員のみなさんも、遠慮していないで、シズちゃんカメラマンのように、私の背後に立って、冬木さんを撮影してあげてください。
会員カメラマンが私の背後だけに数人かたまってしまって撮りにくくなったら、一人ずつ交代して、全員が撮り終わるまで、私は動かないでいます。
緊美研の例会は、そういう融通のきく撮影会でもあります。
私がせっかく精魂こめて縛ったのに、あまりおもしろくない位置から撮られて、その結果、迫力に乏しい作品になってしまったら、私は悲しい。モデルの冬木さんも、私と同様に悲しいと思います。
ついでだから言ってしまいますが、モデルへの縄の掛け方、縛り方に希望があったら、どんどん遠慮なく注文してください。
たとえば、もっときびしい海老縛りが見たいとか、背面合掌縛りの手順を、ゆっくりやって見せてくれとか、そういう注文を、どんどん出してください。
そのご希望に私が応じて、新しい縄をかけた瞬間、モデルがその縄に思わぬ反応を示して、表情を変化させ、新鮮な動きを燃せてくれたら、私もうれしい。
会員たちの個性的な希望を、でき得る限り取り入れて進展させるという、そういうやり方で緊美研は一六五回という回数を重ねてきたのです。
会員諸氏と私とが協力して、モデルの新しい魅力を発見し、深い刺激を共有してきたのです。モデルが拒否しない限り、どんな縛りでも私は実現してお見せします。
緊美研例会で私とモデルが演じるのは、ハプニングに次ぐハプニング。その連続です。
プログラムはあってないのと同じです。
モデルがいる場所を舞台とすれば、私は自分だけ舞台から下りる、ということである。
そして私は、自分のその「作品」を眺める。
「作品」を眺めるときは、無意識のうちに、たいてい最良の位置に立つ。
私の眺めるその位置が、カメラマンにとっても最良の位置だということは、同じスタッフで何度も撮影をしていると、大体わかってくる。
最良の位置というのは、最良のアングルということである。
(アングルが良いとか悪いとかは、どういうところで判断するのか、あとでゆっくり考えてみる。いまズバリかんたんに言うと、緊縛マニア男性をボッキさせるのが良いアングルで、何も感じさせないのが、悪いアングルである)
撮影現場で何度も一緒になって、おたがいに親しくなってくると、モデルを眺めている私の背後に接近してきて、私の肩にカメラを置いて撮るカメラマンもいる。
私の立っている位置が、最もいいアングルだからだ。
そういう場合、モデルは全身全霊を私に向けている。ということは、私のほうに心を預け、いいポーズになっているモデルは、冬木さんに限らない、ということでもある。
背後から肩の上にビデオカメラをのせられると、私はじっと立ったまま、動かないでいる。
ま、そういうことも「縛り係」のつとめの一つですよ。
私の好きなアングルから撮影しているということなので、私としては、それは大歓迎なのです。
ですから、緊美研の会員のみなさんも、遠慮していないで、シズちゃんカメラマンのように、私の背後に立って、冬木さんを撮影してあげてください。
会員カメラマンが私の背後だけに数人かたまってしまって撮りにくくなったら、一人ずつ交代して、全員が撮り終わるまで、私は動かないでいます。
緊美研の例会は、そういう融通のきく撮影会でもあります。
私がせっかく精魂こめて縛ったのに、あまりおもしろくない位置から撮られて、その結果、迫力に乏しい作品になってしまったら、私は悲しい。モデルの冬木さんも、私と同様に悲しいと思います。
ついでだから言ってしまいますが、モデルへの縄の掛け方、縛り方に希望があったら、どんどん遠慮なく注文してください。
たとえば、もっときびしい海老縛りが見たいとか、背面合掌縛りの手順を、ゆっくりやって見せてくれとか、そういう注文を、どんどん出してください。
そのご希望に私が応じて、新しい縄をかけた瞬間、モデルがその縄に思わぬ反応を示して、表情を変化させ、新鮮な動きを燃せてくれたら、私もうれしい。
会員たちの個性的な希望を、でき得る限り取り入れて進展させるという、そういうやり方で緊美研は一六五回という回数を重ねてきたのです。
会員諸氏と私とが協力して、モデルの新しい魅力を発見し、深い刺激を共有してきたのです。モデルが拒否しない限り、どんな縛りでも私は実現してお見せします。
緊美研例会で私とモデルが演じるのは、ハプニングに次ぐハプニング。その連続です。
プログラムはあってないのと同じです。
2009/12/08
201・濡木の背中から撮る
シャッターチャンス、とかんたんに言いますけど、これがなかなかむずかしい。
カメラが好きな人だったら、だれでもわかっているはずなのに、じつは、あまりわかっていない。
とくに「緊縛写真」の場合、シャッターチャンスがむずかしい。
一筋縄ではいかない(シャレのつもりですけど、わかるかなあ)
「縄」、モデル、カメラマン三者の呼吸が一致しないと、いい「緊縛写真」とはなり得ない。
この場合の「縄」とは、私つまり濡木自身のことです。
先日、私の仕事部屋の近くにあるスタバで午後四時から七時まで、シズちゃんカメラマンと向き合って、しっかり語り合いました。私が、
「シズちゃんの写真、おれ、好きだよ。じつにいいタイミングで、絶妙のアングルで、シャッターを押している。だからマニア好みのいい写真になる。お世辞でなく、シズちゃんうまいよ」
すると、シズちゃん、恥ずかしそうに、照れたように、ふふふ、と笑って、
「あのね、先生がモデルさんを縛るでしょ。それから会員のみなさんに撮ってもらうために、そのモデルさんから離れる。すこし離れたところに立って、先生はじいっとモデルさんを見ている。その先生の後ろにくっついて、シャッターを押すと、いいアングルで撮れるんですよ」
と言う。
「えっ、それって、どういうこと?」
と私。
「とくに冬木さんがモデルのときはそうなんですけど、おそらく無意識のうちに、彼女は縛られてからも、先生のほうに心と体を向けているような気がするんです」
「ほう」
「冬木さんは、つねに先生に何かを訴えようとしていて、その心がしぜんにポーズに現れて、先生の位置から見て、いいアングルになる。ですから先生の背中にくっついて、先生の目でシャッターを押すと、いい結果になります」
「へえ、そうなのか。ぜんぜん気がつかなかったなあ」
「モデルとしてのポーズとか、形を意識して先生のほうに体を向けているのではなく、冬木さんには、先生に自分の心を見てもらいたいという気持ちがあって、それが先生のほうに最高の形を向ける結果になるんじゃないかしら。私はそれを利用しているだけです」
冬木さんはウソをつけない、誠実で、ひたむきな人だから……というようなことを、シズちゃんは言いたかったらしい。
が、シズちゃんもひかえめで、奥ゆかしい女性なので、口には出さない。
「そういうこともあるのかね、なるほどね」
と私は言ったが、冬木さんの内面のこまかいところまではわかり得ないとしても、真実味のある、いいポーズになってくれれば、私としては、それが最高にうれしい。
見た目はどんなに残酷非道に縛ってあっても、それは形だけで、縛られた女性の内面がまったく表現されていない緊縛写真群には、マニアはもう飽き飽きしている。
たとえ縄一本だけの縛りでも、その女性の情念が肉体からじわじわとにじみ出し、被虐情緒たっぷりのエロティシズムとなって訴えかけてくる写真を、マニアは待ち望んでいる。私ももちろん、そういう写真を見たい。
私が期待している写真に、シズちゃんのカメラは近づきつつある。たのしみである。
2009/12/06
200・縄のカンドコロ
私が、私の縄で緊縛したモデル女性を撮影した山芽史図カメラマンの写真がいい。
たいへんによろしい。
私は、満足であります。
いま私は、サニー出版発行の「SMネット」という雑誌をひらいて、山芽カメラマンが撮った写真を、うっとりと見つめている。
そのページには「前略、縛り係の濡木痴夢男です」というタイトルで、私の連載エッセイが掲載されている。
第九回は「形だけの縛りなんてもう見たくない」で、その私の文章の中に、山芽カメラマン撮影のカラー写真が一枚だけ添えられているのだ。
タテ12センチ、ヨコ6センチ位の小さな写真で目立たない場所に載っているのだが、じつに情感のある、物語性を感じさせる、味のある、いい写真なのだ。
私が縛ったモデル女性を、こういうふうに撮ってくれると、私は本当にうれしい。ありがたい。
ああ自分は結構いいシゴトをしてるんだな、という気持ちになる。
逆にポイントのはずれた、つまらない写真を撮られて見せつけられると、ああ自分はなんという無意味な、質の低いシゴトをしているんだろう、もうやめたほうがいいな、という気分になってしまう。
「縛り係」なんていうシゴトも、これでなかなかデリケートなのでありますよ。
山芽史図カメラマンの写真は……エエめんどくさい、山芽史図カメラマンなんてややこしい、やっぱりいつものように、シズちゃんと呼ぶことにしよう。
(例会にきてくださっている会員の方々にはもうおなじみの、あのどこかおっとりした、よく見るととても親しみやすい、ボヨヨーンとした可愛らしい感じの女性、あの女性がシズちゃんです)
シズちゃんの写真は、まず、シャッターチャンスがいい。
「縄」の動きと、モデルの気合いが、緊迫してきて最高に盛り上がり、二者(私とモデル)の呼吸が完全に一致したとき、その瞬間がシャッターチャンスであり、これがすこしでもずれると、なんとも気のぬけた写真になります。
シズちゃんのカメラはシャッターチャンスがよく、その瞬間をおさえる「SM」のカンドコロがいい。
私のカンドコロと一致しているのです。
私の緊縛カンドコロと一致しているということは、同時に、この「SMネット」誌に掲載された写真の場合は、モデルは冬木さんなのですが、この冬木さんの呼吸のカンドコロとも一致している、ということになります。
つまり、三者のカンドコロが一致したからこそ、この写真に迫力と、SMの妙味が生まれたのでしょう。
逆にカンドコロのおさえ方が、三者三様バラバラになると、なんともしまりのない、緊迫感のない、生身の体温が感じられない形だけの「縛り写真」になってしまいます。
え? え? なに?
カンドコロって、なんのことか、って言うんですか? 辞書を引いてみよう。
かんどころ(勘所)……弦楽器、とくに三味線などで糸を押さえて音調をととのえるところ。大切なところ。物事の急所。
と、あります。私は芝居好きだから、こんなときでも三味線の用語を使ってしまうのだな。そうか、物事の急所か。でも急所というより、もっと感覚的なものだと思いますよ。
2009/11/13
199・取り乱す女の魅力
私に送ってくださった冬木さんの、凄烈な情念のこもった手紙のつづき。
「……あのとき、会員の方々を意識するだけの余裕は、私には全くありませんでした。
子宮めがけて短刀を突き立てた瞬間、現実の我が子達を冒涜してしまったかのような、無情な自身の残虐性にすさまじい嫌悪を感じ、それらの様々な感情をおのれの中で到底処理などできず、号泣してしまいました。
私という人間のパーソナリティのうちの『母の部分』が勝ってしまいました。
あのような場での私の立場は、あくまでもモデルとしての自負を持ち、保たねばならないのに、取り乱してしまい、先生にも、見て下さっている会員の皆さんにも、申し訳なさでいっぱいになってしまいました。いつもいつも取り乱してしまい、申し訳ございません。
その後先生は充実した心穏やかな日々を過ごされていらっしゃいますか?
今までにも幾度となく申し上げて参りましたが、私は先生が余計なストレスを感ずることなく、心穏やかな日々を過ごされることを何より願っております。
繰り返しになりますが、いつまでも心より先生のことを陰ながら応援させて頂いております。」
手紙はここで終わるが、じつは、ここから最初に紹介させていただいた写真集「手首」についての文章につながる。
そうしたほうが彼女の心情を読者に伝えやすいと思い、前後を入れ替えたわけである。
勝手なことをしましたがご了承ください。
迫力のある文章で、凄いと思ったのが「切腹のイメージ」のところです。ですが、
「男どもの欲情の果てに身ごもった我が子を、自らの手で切り裂いてでも食らって生きのびたい、という人間の本能にこの上ないエゴイズムの表現……」
というところが、どうもよくわかりません。
私は男なので、女性のそういう生理はどうも理解できないし、もともと頭が悪いせいでよくわからない。
もうすこし具体的に説明していただけるとありがたいのですが。
といっても、切腹願望なんていう強烈な欲望を、そうかんたんに説明できるものではないと思いますが、もうすこしはっきり共鳴したい気持ちもあります。
でも、なにやら凄いイメージのもとに、強烈な衝動のもとに短刀を腹に突き立てたのだな、ということはわかりました。
あなたの頭脳の中のイメージは不明でも、情念のこもった行動の迫力は十分に感じられました。それでいいと思います。
取り乱したことを、あなたはしきりに申し訳ないと言ってあやまっていますが、あやまる必要は全然ありません。
あそこで取り乱していただかないと困ります。
取り乱すのは、いいことです。非常にいいことです。欲をいえば、もっともっと我を忘れて取り乱していただきたい。
そこに縛られる女の、真実の心を見ることができるからです。私たちは、あなたが取り乱すところを見たいのです。取り乱すところに、値打ちがあるのです。私が、
「縛ってくださいと言ってみろ!」
と、しつこくせまったのも、あなたが取り乱すところを見たいからなのです。取り乱すのは感情が高揚するからです。心を高揚させない女性なんて私は縛りたくありません。









