2012/06/05

◆最新NEWS◆2009/06/029更新

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お知らせ
2009/11/13

199・取り乱す女の魅力


 私に送ってくださった冬木さんの、凄烈な情念のこもった手紙のつづき。

「……あのとき、会員の方々を意識するだけの余裕は、私には全くありませんでした。
 子宮めがけて短刀を突き立てた瞬間、現実の我が子達を冒涜してしまったかのような、無情な自身の残虐性にすさまじい嫌悪を感じ、それらの様々な感情をおのれの中で到底処理などできず、号泣してしまいました。
 私という人間のパーソナリティのうちの『母の部分』が勝ってしまいました。
 あのような場での私の立場は、あくまでもモデルとしての自負を持ち、保たねばならないのに、取り乱してしまい、先生にも、見て下さっている会員の皆さんにも、申し訳なさでいっぱいになってしまいました。いつもいつも取り乱してしまい、申し訳ございません。
 その後先生は充実した心穏やかな日々を過ごされていらっしゃいますか?
 今までにも幾度となく申し上げて参りましたが、私は先生が余計なストレスを感ずることなく、心穏やかな日々を過ごされることを何より願っております。
 繰り返しになりますが、いつまでも心より先生のことを陰ながら応援させて頂いております。」

 手紙はここで終わるが、じつは、ここから最初に紹介させていただいた写真集「手首」についての文章につながる。
 そうしたほうが彼女の心情を読者に伝えやすいと思い、前後を入れ替えたわけである。
 勝手なことをしましたがご了承ください。
 迫力のある文章で、凄いと思ったのが「切腹のイメージ」のところです。ですが、
「男どもの欲情の果てに身ごもった我が子を、自らの手で切り裂いてでも食らって生きのびたい、という人間の本能にこの上ないエゴイズムの表現……」
 というところが、どうもよくわかりません。
 私は男なので、女性のそういう生理はどうも理解できないし、もともと頭が悪いせいでよくわからない。
もうすこし具体的に説明していただけるとありがたいのですが。
といっても、切腹願望なんていう強烈な欲望を、そうかんたんに説明できるものではないと思いますが、もうすこしはっきり共鳴したい気持ちもあります。
 でも、なにやら凄いイメージのもとに、強烈な衝動のもとに短刀を腹に突き立てたのだな、ということはわかりました。
あなたの頭脳の中のイメージは不明でも、情念のこもった行動の迫力は十分に感じられました。それでいいと思います。
 取り乱したことを、あなたはしきりに申し訳ないと言ってあやまっていますが、あやまる必要は全然ありません。
あそこで取り乱していただかないと困ります。
取り乱すのは、いいことです。非常にいいことです。欲をいえば、もっともっと我を忘れて取り乱していただきたい。
 そこに縛られる女の、真実の心を見ることができるからです。私たちは、あなたが取り乱すところを見たいのです。取り乱すところに、値打ちがあるのです。私が、
「縛ってくださいと言ってみろ!」
 と、しつこくせまったのも、あなたが取り乱すところを見たいからなのです。取り乱すのは感情が高揚するからです。心を高揚させない女性なんて私は縛りたくありません。

緊美研
2009/11/12

198・切腹へのイメージ


 冬木さんのように、例会後の感想を、モデル側の立場から正直に、くわしく、このように書いて送ってくださる人は、本当にすくない。
 女性にとって書き難い内容であることも確かだが、一生けんめい神経をそそいで縛っている私としては、やはり、相手の女性がどんな気持ちで私の縄に応じてくれているのか、知りたい。
 何百人、何千人と縛ってきている私でも、やはり相手の心を知りたい。
 この「仕事」に、慣れるということはない。慣れてしまったらおしまいだという気持ちも、私にはある。
 私としては、それだけ縄に魂をそそぎこんでいるのだ。
「お疲れさま、ハイ、さようなら」
 で、その後はもうなんの音沙汰もなく、数日後には相手はべつの「縛り」のモデルをやっている。それではあまりにも、味気ないではないか。
 生きている女体を縄で縛るという、まったく非日常的な、非常識的な、そして見方によっては非人間的と呼ばれても仕方のない行為を、共に、数時間すごしてきたのだ。
終わったらすぐに「ハイ、サヨナラ」ではなく、もうすこし何かの心情的な会話があってもよいではないか、というのは、しょせん私の愚痴である。
 いまはそういう時代ではないのだろう。
なんといってもネットとか、メールですませる時代なのである。
冬木さんのこの手紙は、私にとって何者にも替え難いほどありがたい。
そうか、あのとき、こういう心情をもってこの人は自分に縛られていたのか、ということがわかる。納得する。女体を縛った実感がある。
 私は布団を丸めて縛っているのではないのだ。人間を縛っているのだ。
やはり、相手の「心」を知りたい。
 というところで、冬木さんは、さらに深い心境まで書いてくださっている。

「……先日の例会のあと、送っていただいた車の中で、私は先生に、
『自分を出しきれずに、見てくださっている方々に申し訳ないことをしました』
 とお話しした記憶があります。
 それは、切腹シーンのときの自責の気持ちでした。
 何故か私は人前で涙を流す、声を出して泣くということに強い抵抗があり、そのようなことは『みっともない』といった気持ちが、強くあります。
 きっと私のくだらない、つまらないプライドなのでしょうね。
 人前で涙を流す、すなわち同情でも誘うかのような真似をしてしまう自分に、どうしても嫌悪感が拭えないのです。
 それゆえに『あのとき、なんてみっともない姿を晒してしまさたのだろうか』という自責の念が残ってしまいました。
 今更の告白ではございますが、あのときにふっと浮かび上がったイメージは、『生への執着』がテーマとなっていました。
 イメージの中にのみ存在する私は、貧しい北東アジアの人間であり、下世話な男どもの欲情の果てに身ごもった我が子を、自らの手で切り裂いてでも食らって生きのびたい、という人間の本能にこの上ないエゴイズムを表現したかったのです。
 よって、子宮をかき切るために、股縄を自分で解いたのです。」
 冬木さんの文章は、まだまだつづく。

緊美研
2009/11/10

197・ぐずぐず、ごたごたの真実


 沢戸冬木さんの私への手紙の内容は、さらに深く、そして鋭くなってくる。
 こうやって彼女の文章を原稿紙に一字一字書き写しながら、私自身も勉強になり、ときどきハッとして、反省したりする。

「……ここ数年のネット上における『ナイショ話』や『おしゃべり芝居』を拝読しておりますが、簡単にネット上でアクセスすれば読めるようなツールなどない頃、つまり十数年前、いや二十年前から先生は、表現こそ違いますが、同じようなことを仰っておられますよね。
『ぐずぐず、ぐだぐだ、ごたごた言う女は嫌い』であると。
 私は純粋に、作家としての先生の思想がとても好きですし、先生ならではの縄使いにも、ずっとずうっと魅了され続けてきましたから、やはり単純に、先生に『嫌われたくない』という思いはあります。
 でも、だからといって、おのれを押し殺し、表面上の体裁を保ちたいがゆえに、媚を売るような真似は、絶対に致しません。
 だからこそ『ぐずぐず、ごたごた、ぐだぐだ言う女は好まない』と先生が幾度となくおっしゃっておられるのを拝読するたび、見聞きするたび、私は少し胸が痛くなります。
 何故ならば、先生と接する時の私は、どうしても『ぐずぐず、ごたごた』してしまうからです。
 どうしても、どうしても、『縄』に関することでは、スパッといさぎよい決断を求められているとわかっていても、それを先生が好まれるとわかっていても、いわゆる「ぐずぐず、ごたごた」と、ためらってしまうことが多くあるのです。
今回(一六五回)の例会でも、『縛ってください』と言うだけ、たったそれだけの台詞を言うだけでも、私は随分とゴネてしまいました。
 大方の人間が想像に容易なことでしょうが、確かに恥ずかしくてたまらない、という想いが、大半を占めています。
 でも残りの感情は、そのような台詞を、安易に発することのできる女に対する強い嫌悪感や、軽蔑、そして、ひどい哀しみに近い嫉妬が綯い交ぜになっているのです。
『そんな恥ずかしい、みっともないことを平気で、他人の前で口にできるくらいならば、私はこんなにも長いこと苦しまずに生きていくことが出来た!』
という個人的な感情が渦巻いてしまうのです。
 でも、限られた時間の中で、先生にわかりやすくお伝えするには、『恥ずかしいから』という大義名分を振りかざすしかありませんでした。
このことで、きっと先生には少なからずとも不快感を感じられたことでしょう。申し訳ございません。」

 冬木さん、あなたは、私にあやまる必要はまったくありません。
 AV系の映像によく見られる残酷拷問我慢大会ふうのシーン、そして、やたらに手足を折り曲げ、宙に吊り上げてアクロバット的ポーズで「SM」を強調するシーン、あれはしょせんは「慣れ合い」です。
はじめはめずらしかったけれど、いまはもう私たちの目に慣れてしまって、迫力は感じられません。
 危険な芸を演じる芸人の芸になってしまい、あれは「SM感覚」とは違う存在です。私の言葉なぶりに耐えて苦悶したあなたにこそ嗜虐の快楽を誘い得る迫真の姿がありました。

緊美研
2009/11/09

196・私は慣れない

 沢戸冬木さんから送られてきた手紙のつづき。

「……今回の第一六五回の例会のあと、ふと、先生が『慣れ』ついておっしゃっておられたことを思い出しました。
 私が実際に、先生とはじめてお会いしてから、まだ数ヶ月という短い月日ではございますが、第一六三回、第一六四回、第一六五回、そして『悲願』の撮影時も含め、光栄にも四回も先生の縄を心と身体で感じさせております。
 ですが、いくら回を重ねようと『慣れる』ということがありません。
 例え同じ縄を使われていようと、同じスタジオに居ようと、同じ顔ぶれの会員さんやスタッフの方々を目の前にしていても、私は『慣れる』ということがないのです。
 毎回、先生の縄は新しい生命を宿って、いきいきと動き、先生の縄ならではの独特の臨場感の中で、私は自由に泳ぐことができるのです。
 無論、言うまでもなく、両者のその日の体調や気分、精神状態や状況により、差異が生じる類のものとは思いますが、そういったものを加味せずとも、ハッキリとした違いを感じるのです。
 ですから私は毎回新しい先生に、そして新しい自分に出くわしているような感覚に陥ります。
『慣れる』ことがない、すなわち『飽きる』ということを知らず、本気で、魂を籠めて愉しむことが出来る……まずはそのことに心より、感謝の念をお伝えしたいと思います。
 私は呑気に愉しんでいれば良いだけの話かも知れませんが、先生はとうに、先生自身の愉しみなど、二の次、三の次にし、その場の空間を大事にするために神経を使い、動き、そして更に、私にまでも身と心に悦びを与えてくださる……そのことが、私には申し訳なく、そして胸が切なくなるほど嬉しいのです。単なる社交辞令での言葉ではありません。また、私だけ、などという自惚れもありませんので、ご安心くださいね。」

 どんなに心をこめて一生けんめい縛っても、とくにAV系の「SMビデオ」撮影の場合などは、仕事が終わって「お疲れさま」を交わしたとたんに、もうモデルとは、まったく無関係の他人になってしまう。
 まあ、考えてみればあたりまえの話で、どんなに感情を高ぶらせ、縄に欲情をこめて縛ったところで、しょせんは「仕事」なのである。
 撮影が終わってみれば、「ひと仕事終えた、やれやれ」という気分にしかならない。
 仕事は、仕事であって、仕事以上のものではない。
しかし、私のような人間には、やはり、ものたりない。私の縄には、仕事以上のものがあると思っている。
それがなければ、とてもつづけられない行為だと信じている。
 なので、冬木さんのように、縄を解いたあと、数日たっているのに、こんなにも熱っぽい、ていねいなお手紙を書いてくださることは、どんなにうれしいかわからない。
 それは、私の縄に、感じてくださるということである。
 感じている演技をしているのではなく、本当に感じているのである。だから冬木さんの縛られ、攻められている姿に、緊美研の会員諸氏も、これまで味わうことのなかった感動をおぼえるのである。
 彼女の私への手紙は、まだまだつづく。

緊美研
2009/11/08

195・生きもののように揺れ動く


 冬木さんの手紙の中に出てくる写真集というのは、緊美研に出演した冬木さんの写真(山我史図カメラマン撮影のもの)をメインにして、私が詩を添えた、ささやかな私家本タイプの写真・詩集である。
 タイトルは「手首」。
 編集と造本を担当してくださったのは、風俗資料館の中原館長で、文字どおりの小冊子ながら、この体裁、この感触、全体の雰囲気が、まことによろしいのだ。
 わずか十数部しか発行しない超私家本だが、大好評、大絶賛で、手に取った人たちすべてが、
「ウーン、いいなあ!」
 うなり声をあげるのだ。
モデルの冬木さんには、懇望されて、二冊差し上げた。一冊は「永久保存版」というわけである。
冬木さんの私への手紙のつづき。

「……行く先のものは、決して『死』ではなく『詩』であると、これほど私の心を穏やかにし、浄化させる言葉はありません。
 私の生きてきた、これまでの道にも、心と身体を通わせた人間が、目の前で自殺、ニュースにもなったような他殺など、色々あったのです。
 それでも生きていかねばならない私。ふつうの日常に埋もれ、そしてまた、明日を生きるために体をやすめ、先生の詩を枕の下に潜めながら眠るとき、どれだけの勇気を頂くかわかりません。
 いつも本当にありがとうございます。
 先生、ありがとうございました。また、お互いに、元気な姿でお逢い出来ることを、心より楽しみにしております。
 どうか、一参加者としてでも構いませんので、また緊美研の例会に参加させてください。あの独特の感性を共有できる空間に、また身を投じたく思います。(以下略)」

 花模様のついた便箋十一枚に、こまかくていねいに書かれた彼女からの手紙の、これが最後の部分である。
 私はまず彼女に、
「お手紙ありがとうございました。つぎの例会にも、ぜひおいでください。お待ちしています」
 という返事をさしあげなければならない。
私があなたを縛るのは、早いもので、もう五回目になるのですね。
 私の縛りは、かなり過酷なものなので、よく耐えてこられたと思います。
過酷とはいえ、けっして無理をしたり、強制はしなかったので、あなたは安心して、私に身を任せてこられたのでしょう。
 前回予定していて、時間不足のためにできなかったことを、つぎの回にやってみましょう。ご期待ください。
 つぎの例会にあなたを縛るときの感触を想定しながら、今回いただいたあなたからの手紙のつづきを、紹介させていただきます。

「……遅ればせながらではございますが、第一六五回の例会では、大変にお世話になりました。それにしても、心に深く残る思いが、強く大きければ大きいほどに、言葉にするのに時間がかかるものですね。
 もともと文字を連ねることを好み、わりと得意とする私ですが、濡木先生に対しては、毎回残された想念が創り出す波動が大きく、まるで生きもののように揺れ動きます」

 そうですか。でも生きもののように揺れ動くというのは何でしょう。次回へ続けます。

 
緊美研
2009/11/07

194・美しい手紙


 沢戸冬木さんから、分厚い封書のお手紙をいただいた。
 このように美しい、ていねいなお手紙を送っていただくのは、これでもう何度目になるだろうか。
すべて私の財産として、たいせつに保管させていただいている。
 肉筆文字の手紙は単なる通信ではなく、贈り物です、というようなCMがあったが、まさしくそのとおりである。
 花模様のついた二色刷りの、いかにも女性らしいきれいな便箋十一枚に、ぎっしりと心のこもったペンの文字。
 パソコン文字の無味乾燥な記号とちがって、その文字の一字一字を見ただけで、冬木さんの心臓の鼓動と、体温と、表情を感じる。
手で書かれた文字には、やはり魂がこもっています。彼女の肉体を流れる血の色と、血の熱さを感じます。
 そのお手紙の中で、この「ナイショ話」に掲載して適当と思われるところ、彼女の迷惑にならないところだけを、紹介させていただく。
 この文章は、もちろん冬木さんへの返信ですが、同時に「緊縛」に対する私の考え方をのべているところは、いままでどおりです。
 かさねていえば、冬木さんへの返信の形を借りた私の「緊縛」論ということになります。
そこでまず、彼女の手紙の終わりのほうの部分から、紹介させていただこうと思う。

「……私の方は、ついに企画を実現させ、日々せわしなく動いております。企業家として、経理から営業、技術をも含め、何から何まで一人でやらなくてはならないので、やはりそれなりに大変で、ふと時間に隙間ができたときなど、心が折れそうになることもあります。
 自分の選んだ道であると、気丈に振舞っていても、どうしても、しんどい時があります。そんな時、私は先生に頂いた写真集を、そっと開きます。そこには、私の胸をこの上なく、切なく苦しく、安らかで、穏やかで、自身の明日を生きる糧になる先生の詩があります。安易に表面上を追うような表現などしたくないのですが、
『死ではなく詩だからこそ、あなたはそんなに哀しい顔をしなくてもよい』
 の一行は、私に強い強い勇気を与えて下さるのです。(以下略)」

 山芽史図の写真集に添えてある私のその「詩」を、つぎに書き写してみる。タイトルは「この縄は」である。

 この縄は 詩です
 いいえ 死ではありません 詩です

 この縄は いつも微笑をたたえている仮面です
 この縄は いつもほんのりかぐわしい
 この縄は うすむらさきに咲く花です
 この縄は 秋のおわりのこおろぎの吐息のように
 細くしなやかに 女の肉体から
 やさしい詩を つむぎだします

 ですから死ではなく 詩です
 というわけで あなたは
 そんなにかなしい顔を
 しなくてもよいのです

 冬木さんの私への手紙はまだまだつづく。

緊美研
2009/10/22

193・冗談じゃない


 なんだって?
「緊美研は変わってしまった、様子を見る」
 だと?
 おいおいおいおい。
 冗談じゃない。
 様子を見るだと?
 どうやって様子を見るのだ。様子とはなんのことだ。
緊美研は変わってはいない。
あいかわらず、濡木痴夢男が、ヒトラーの如く、すべての演出をやっている。
悲しいくらいに変わっていない。
いや、いまテンションが上がっているから、以前の緊美研よりも、さらに、私なりのきびしさを増している。
 通俗的エロティシズムを極力排し、マニア精神を深めている。
いまの緊美研は、以前の緊美研よりも内容が豊かに、凄くなっている。迫力が増している。
 たとえば、前回の例会の、冬木さんに対する言葉なぶりは、われながら過激だった。
「この縄で縛ってくださいと言ってみろ。お願いしますと言ってみろ。なに?聞こえない。もっと大きな声で、縛ってくださいと言ってみろ。もう一度言え、もう一度言え!」
 私は彼女に、ありったけの気合をこめてせまった。
ぎりぎりの限界まで追いつめた。
真剣勝負だった。
彼女は、こういう「芝居」ができないモデルなのだ。いつも本気なのだ。
プライドの高い彼女は、あのとき私が、鬼のように見えただろう。
犬のようにうずくまって私を見上げる彼女の目が、恨みと憎悪で一瞬光った。
 いま思っても、あの言葉なぶりのシーンは凄かった。
(じつは、ちょっと後悔している。またやれと言われても、同じようにはできないだろう)
 冬木さんのリアクションがまた、おそろしいほどマゾヒスティックでよかったから、つい調子にのって、私はさらにしつこく、くり返してやってしまったのだ。
 沢戸冬木という、これまで類をみなかったすばらしいモデルの出現は、私の実際的SM心理探求の精神を、一歩奥へ深めてくれた。
 私になぶられ、縛られたその屈辱と恨みをこめての彼女の凄絶な切腹(と私は勝手に妄想し、物語をつくった)。
 そして、会員の駒井さんがわざわざ買ってきてくれた、おそろしくマニアックな全身タイツをつけて私に縛られた悠理の妖艶な美しさ。
 プロローグには、Rマネとみるくとの「正統的」スパンキング。
 なんと豪華な内容だったろう。
 以前の緊美研の二倍三倍の強烈な楽しさがあった。
 私と女性たちのその演技を見守り、撮影する会員諸氏の全体のムードも、まったく以前の緊美研と同じである。
 だからみるくよ、心配するな。私はみるくを信じる。あの小さなショーツに包まれた白いフニャフニャしたお尻が、強烈なスパンキングをうけて無残に赤く変色し、それを悩ましく悶え耐えているみるくの可憐な姿を見たら、だれだって信じないわけにはいかない。
 それを命じ、やらせたのは私だ。
 私がいるかぎり、緊美研は以前と同じ緊美研だ。私がいなくなったら、緊美研はその日から変わるかもしれない。だが、いまの緊美研は、私自身だ。緊美研の内容を左右するのは、みるくではない。私である。

緊美研
2009/10/21

192・仲間と他人の違い


 緊美研の例会に参加してくださっている会員の方は、みるくと直接会い、会話も交わしている。みるくが接待や撮影の手伝いをしている姿も、前回の例会では、セーラー服で縛られ、スカートをまくられ、お尻を叩かれている姿も見ているので、いってみれば、彼女とは顔なじみになっている。
 知らない人にはとても見せられない、お尻が赤く腫れあがっていくところも、彼女は見られてしまったのだ。
 そんなところまで見られてしまったのだから、見た人とみるくとは、誇張していえば、もう他人ではない。
気どった言い方をすれば、同じ密室の中で同じ空気を吸った仲間であり、共犯者なのである。共犯者の言葉は信用できる。
共犯者ともいえる仲間と、そうでない人との差は大きい。
 私のところへきたみるくの、こまかくていねいに、そして心のこもった美しい楷書のペン字で書かれた文章のつづき。

「……もちろん先生は、インターネット等には興味がないと思いますが、私が作ったホームページや文章を見て、匿名の『古い会員』を名乗る方から『緊美研は変わってしまった。様子を見る』とか、クレームを受けるようになりました。メールで寄せられる『電子文字』でのクレームは悪意ばかりが浮き彫りになっています。私はお互いの表情の変化や想いなどを聞き、話したいと思っています。
『いま』を良く思っていない『古い会員さん』にお会いすることはできるのでしょうか。
私の書いたことについて謝罪したいと思います。最近、そのことばかり考えています。
『私のせい』で緊美研が悪く思われてしまうのはつらいです。なんとかしたいです。
 こんどのお芝居のチケットを送って下さり、ありがとうございました。お芝居の稽古、撮影のお仕事、原稿の執筆などお忙しいと思いますが、お体にはお気をつけ下さい。元気でいてくださいね!」

 個人的情報に類する部分はカットしたが、みるくからの手紙は、以上である。
 みるく個人への返事をする前に、このナイショ話で、私の考えをのべておく。
「匿名の古い会員さん」に、あなたは会う必要はありません。会っても無駄です。
 会おうと思うことさえ、私には腹立たしい。
 大体、匿名というのは、自分自身を匿したいから匿名にするのでしょう。
どこのだれともまったくわからない、いるのかいないのかわからない人間が書く文章など、私は、むかしの公衆便所の壁によくあった落書きだと思っています。
こんなことをいうと、Rマネに、
「そうではありません。たとえ匿名でもネットの電子文字でも、文章の質によりますよ」
 と注意される。
ハイハイと私は聞いているが、心の底ではやっぱり便所の落書きだと思っている。
 便所の落書きの筆者に、みるくは会いたいと思うのかね。匿名の人間は仲間ではない。
便所の落書きだから、なんでも書ける。
「古い会員」というのも、たぶんウソだと思うよ。匿名の人を仲間だと思ってはいけない。
 濡木痴夢男の弟子だと言っている人が、あちこちにいるそうだ。ふしぎなことに、私の弟子だという人が、全国にちらばっている。
私には弟子なんて、一人もいない。
 みるくの手紙についてのナイショ話はこの回で終わる予定だったが、だんだん腹が立ってきたので、まだつづけることにする。

緊美研
2009/10/18

191・当分死なないでね


 みるくから来た長い長い自筆の手紙は、まだつづく。いま、ようやく全文の三分の一だけを紹介したところである。
 つぎは、いきなり私、つまり濡木自身のことになる。
とんでもないことが書いてある。

「……ところで、先生はよく『もう先がない』『時間があまりない』などと、悠理さんあてのFAXやナイショ話でおっしゃっていますね。最近、ぼんやりですが、そのことを考えております。
 先生は能力も行動力もあり、とてもお元気(パワフル)なので当分死なないという確信はありますが、それでも、私より先に逝ってしまうことは確かですよね。私は自分がそれほど長く生きられるとは思わないのですが、先生が死んでしまう、死んでしまったあとのことを考えると、どうようもなくさみしく、悲しくなってしまいます。だったら先生より先に死にたい、と思うこともあります。
 先生の中にあるたくさんの才能がなくなってしまうのはとても残念で、ひとつの時代の終わりを感じます。
 『100歳まで生きてね』と約束していた祖母は、6年前に71歳で病気で亡くなりました。その2年後には、飼っていた猫も死んでしまいました。自分の中のたくさんを占める人が『いなくなってしまう』のはとても悲しく、つらいです。……」

 このあたりまでくると、ゲラゲラ笑いだしてしまった。
 おばあちゃんが亡くなったのは、ご愁傷さまと申し上げねばならないが、私が死ぬのと飼っていた猫が死ぬのと、同質に悲しんでくれるのは、なんとも言いようもなくおもしろく、もう笑うより仕方がない。
 思わずアハハと笑ってしまう。おそらく実感なのであろう。皮肉ではなく、みるくはまことに正直な少女である。

「……いままでと同じテンションで、長生きして下さい。私よりずっと元気な先生がある日『いなくなって』しまったら、きっとその部分の心もなくなってしまいます。ずっとお元気で。……」

 いままでと同じテンションで生きてくれというのは、無理だと思うよ、みるく。
 すこしずつ、テンションは下がっていくだろう、年とった猫のように。
 だが、テンションが下がった分だけ、テクニックその他の頭脳的な部分は経験をつみ、したたかになっているはずだから、そこはうまく捕らえると思うよ。
 さて、みるくの自筆の手紙の、つぎの章になると、内容が俄然、彼女にとって深刻なものになる。
 私も一緒に考えなければならないような、彼女の悩みである。
 あるいは、これが訴えたくて、みるくは私に手紙を書いたのではないかと思われる。

「……あと、先生に言うのはまちがっているのかもしれませんが、また新しく緊美研をはじめよう、と動き出してから、私は本格的に不二企画のお仕事に携わるようになりました。それまでも悠理さんのお手伝いをしたり、事務的なことはしていたのですが、こんどは正式に加わったという形になりました。
 今年の3月に新しい不二企画、緊美研のホームページがオープンし、再開後に初めて参加された会員さんは、どなたもそこを見て申し込んで下さったのです。……」

緊美研
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