2012/06/05
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スポンサーサイト2009/07/05
138・縄に「気」あり
私が冬木さんに書いた返事を、もう少し紹介させていただく。
モデルの体から解き放った縄を、まだ撮影はつづくという状況なのに、ADたちが気をきかせて、片っぱしから取り片付けていくのを見て、私が怒った、ところまでが前回である。
「……『解かれてモデルの足もとにくねり、わだかまっているこの縄、ここに情緒があるのがわからないのか!』
『すみません。用済みになった縄なんか、映像の邪魔になると思ったものですから』
このチーフのADに、私は何度も同じことを言ってきたつもりです。
でも、わからない。
わからなくて、あたり前なのです。
彼らには、この種の感覚がないのですから。
こういう人たちによって、『SMビデオ』は量産されていくのです。」
じつは、これは、AV系の「SMビデオ」だけの話ではなく、十数年前、緊美研の例会で、私もこのADと同じようなことをやって、会員たちから叱られたことがある。
といっても、私の場合は、モデルの縄を完全に解き、それでもまだ陶酔状態がつづいている彼女の体を前にして、例会終了のあいさつをした後の話である。
私のあいさつは終わっても、会員諸氏の高揚した気分は、まだ静まっていなかったのだ。
会員たちと同じく、モデルの陶酔状態はまだつづいており、あたりに散乱した縄の中に体を沈めてうっとりし、ぐったりと力をぬいているその風情がすばらしいと言って、会員たちはまだ撮りつづけていたのだ。
私はすでにモデルからずっと離れたところに立ち(五メートルも離れていた)、散乱している縄を、端のほうからすこしずつ片付け始めた。すると、
「先生、駄目!まだ縄を動かしちゃ駄目だよ。その縄も入れて撮ってるんだから!」
という声が上がった。
「えっ?ごめんごめん」
と言って、私はあわててその縄を手から離したが、
「ちがうちがう、その縄はそんなくねり方はしていなかった。先生が一度つかんでしまおうとしたから、縄から『気』が消えてしまったじゃないか!」
会員たちはそう言って、くやしそうに私をにらみつけるのだ。
私はあやまりながら、あわてて縄をもとどおりの位置に這わせ、前と同じようにくねらせたりするのだが、「気」を失った縄は、もうただの麻縄でしかなかった。
私は、縄が゜気」を発するということを、このとき、はっきりと教わったのだ。
たとえば「緊縛写真」などを見ていても、魅力のある縄と、まったく魅力を感じない縄がある。
つまり「気」を発していない縄は、魅力がないのだ。
それにしても、思い出す。
「奇譚クラブ」の吉田稔氏も、あの喜多玲子こと美濃村晃氏も、口癖のように言っていた言葉。
「マニアの一人一人が私たちの師匠です。あの人たちの感覚といい、深く重く鋭く掘り下げて追求していく執念といい、それぞれの専門家ですから、とてもかないません。」
一人一人が専門家であり、師匠である。私ももちろん、そう思っている。
2009/07/03
137・春原悠理がモデルになるぞ
冬木さんからいただいたお手紙は内容が濃く、縛られる側の心理がよく描けているので、私の返事もそれに従って、いままでよりも一歩奥へ踏み込んでいくことになる。
以下もまた、冬木さんへの、私の返事の中から。
「……緊美研の悠理カメラマンは、私が縄を解くところはもちろんのこと、解いた縄が、床に落ちているシーンまで、執拗に撮りつづけます。あなたも現場にいて、このことはお気づきでしょう。
そんなこと、私は悠理カメラマンに言ったことなど、一度もありません。
言わなくてもわかっているのです。彼女もまた、縄フェティしストですから。」
と、ここまで書いて、私は、ハッと気づいた。
つぎの例会では、その春原悠理(すのはらゆうり)が、新しい会員の方の強っての頼みで、一度だけだが、モデルとして「特別出演」することになった。
その会員の方、つまり駒井成人氏からいただいたお手紙(これも肉筆で、ていねいに書かれてある)が、私にとって、じつにありがたい、具体的な、いい内容なのだ。
こういう熱い手紙をいただくと、私はたちまち勇気百倍、やる気まんまんになる。
(なにしろ私は浅草生まれの……いや、これはもうやめよう)
この駒井氏からの新しいお手紙も、ぜひ、ナイショ話の中に紹介し、貴重な記録として残しておきたい。
さて、悠理がモデルになってしまうと、そのときのカメラマンは、緊美研スタッフのシズちゃんになる。
つまり、シズちゃんが、悠理を撮ることになる。
悠理以外のモデルを撮影する場合は、もちろん、悠理がカメラマンをやる。
シズちゃんは過去に、私が主演した緊縛映像を撮っているし、私のオリジナルの緊縛ドラマのプロジュースもしているので、私は十分に信頼している。
第一、シズちゃんもまた「縄」のわかる女性である。
考えてみると「緊縛」撮影の仕事を、ずいぶん数多く一緒にやっている。
私は、「縄」のわからない人間を、緊美研の例会に招くようなことは、しない。
絶対に、しない。
「縄」のわからない人間を例会に出席させると、それだけで、例会全体の空気のマイナスになる。
そういう人間がいると、違和感を生じると私はこの前書いたが、ちがう表現をすると、例会の空気が濁り、乱れる。
私は「縄」と真剣勝負をしているので、空気に違和感をおぼえると、ヤル気を失う。
縄を解いたあとのことについて、私は冬木さんへの返事に、こんなことまで書いている。
「……また先日の撮影現場でのことですが、一度完全に縛った縄を半分だけ解き、つぎに違うポーズにして、縄を新しく加えて縛っていく、という段階で、私は解き放った縄を、モデルの足もとや周辺に、わざとそのまま散乱させておきます。
すると、その縄を、ADたちは片っぱしから手でつかんで片付けていくのです。
これには、私も怒りました。……」
2009/07/02
136・縄フェチというもの
縄を解くときの私(濡木)の気持ちについて、沢戸冬木さんから、ありがたいお手紙をいただいたので「ナイショ話」にそのことを書いたら、それを読んだ数人の方から電話がかかってきた。
その数人の方というのは、十数年も前から緊美研の会員でいられる、私のたいせつな、古い友人である。
「縛り」に対する私(濡木)の心情の、別の面までがよくわかっておもしろかった、とその方たちはおっしゃる。
そこで私は、いつものように調子にのって(なにしろ浅草生まれの浅草育ちなもんで、すぐ調子にのる)冬木さんへの返事の中から、その一部を、ここに書かせていただく。
いうまでもなく、私の書くものは、すべて肉筆です。
この「ナイショ話」の原稿も、もちろん肉筆で書いています。
「……縄を解くときの私の心……それを言われたのは、じつは初めてです。
自分でも、気がつきませんでした。気がつかないということは、ごくあたり前の気持ちで、しぜんな気持ちで縄を解く、という行為をしていたからです.
あ、そうか。なるほど、と思いました。
自称縄師のセンセイ方の映像なんかを見ていて、この人には縄フェチがある、とか、この人は縄フェチではない、とか、あいまいな表現で私は言っていたのですが、あなたがおっしゃられたように、それは、縄を解くときに、はっきりと表れるのでした。
つい先日、ある制作会社の撮影がありました。
一つのシーンの撮影が終わると、カメラマンは、さっとモデルから離れ、カメラの操作を中止します。つまり、休憩になります。
私がモデルの縄を解こうとすると、二、三人のAD(助監督)が、サッと近づいてきて、私を押しのけるようにして、縄を解き始めるのです。
縄を解くシーンは、制作者たちにとって、まったく無駄な、意味のない対象なのです。
そんなとき、私は、
『駄目、おれが解く!』
と言って、彼らをはねのけ、自分で縄を解きます。
実際に、彼らにまかせると、愛用の縄の「ヨリ」がゆるんだり、ねじれたりして、あとで困るのです。
しかし、ADたちは、そのように教育されているらしく、熱心に、やや荒っぽく、縄が彼女の皮膚に強くこすれ、彼女が『痛い!』というように、眉をしかめたりします。
自称縄師の先生の中には、そういうADたちの動きを、満足そうに腕組みをして眺めている人もいます。
自分の仕事は終わった、あとは若い連中にまかせておけばいい、という表情で。
そういう縄師のセンセイ方を、私はとても縄フェチとは思えません。」
私が、冬木さんにあてた返事の中の「縄を解くとき」の気持ちは、まだまだつづく。
だが、いまここに、こんなことを書いたら、ADたちに対して気の毒かな、と私は思った。彼らは、彼らなりに、一生けんめい働いているのだから、仕方のないことなのだ。
そうしないと、あとで監督やプロジューサーに叱られるかもしれないのだから……。
結局、だから、責任は監督やプロジューサーにある、ということなのだけれど……。
その数人の方というのは、十数年も前から緊美研の会員でいられる、私のたいせつな、古い友人である。
「縛り」に対する私(濡木)の心情の、別の面までがよくわかっておもしろかった、とその方たちはおっしゃる。
そこで私は、いつものように調子にのって(なにしろ浅草生まれの浅草育ちなもんで、すぐ調子にのる)冬木さんへの返事の中から、その一部を、ここに書かせていただく。
いうまでもなく、私の書くものは、すべて肉筆です。
この「ナイショ話」の原稿も、もちろん肉筆で書いています。
「……縄を解くときの私の心……それを言われたのは、じつは初めてです。
自分でも、気がつきませんでした。気がつかないということは、ごくあたり前の気持ちで、しぜんな気持ちで縄を解く、という行為をしていたからです.
あ、そうか。なるほど、と思いました。
自称縄師のセンセイ方の映像なんかを見ていて、この人には縄フェチがある、とか、この人は縄フェチではない、とか、あいまいな表現で私は言っていたのですが、あなたがおっしゃられたように、それは、縄を解くときに、はっきりと表れるのでした。
つい先日、ある制作会社の撮影がありました。
一つのシーンの撮影が終わると、カメラマンは、さっとモデルから離れ、カメラの操作を中止します。つまり、休憩になります。
私がモデルの縄を解こうとすると、二、三人のAD(助監督)が、サッと近づいてきて、私を押しのけるようにして、縄を解き始めるのです。
縄を解くシーンは、制作者たちにとって、まったく無駄な、意味のない対象なのです。
そんなとき、私は、
『駄目、おれが解く!』
と言って、彼らをはねのけ、自分で縄を解きます。
実際に、彼らにまかせると、愛用の縄の「ヨリ」がゆるんだり、ねじれたりして、あとで困るのです。
しかし、ADたちは、そのように教育されているらしく、熱心に、やや荒っぽく、縄が彼女の皮膚に強くこすれ、彼女が『痛い!』というように、眉をしかめたりします。
自称縄師の先生の中には、そういうADたちの動きを、満足そうに腕組みをして眺めている人もいます。
自分の仕事は終わった、あとは若い連中にまかせておけばいい、という表情で。
そういう縄師のセンセイ方を、私はとても縄フェチとは思えません。」
私が、冬木さんにあてた返事の中の「縄を解くとき」の気持ちは、まだまだつづく。
だが、いまここに、こんなことを書いたら、ADたちに対して気の毒かな、と私は思った。彼らは、彼らなりに、一生けんめい働いているのだから、仕方のないことなのだ。
そうしないと、あとで監督やプロジューサーに叱られるかもしれないのだから……。
結局、だから、責任は監督やプロジューサーにある、ということなのだけれど……。
2009/06/30
135・縄を解くとき
そうか。冬木さんは、私があなたを縛るときだけでなく、縄を解くときにも、こんなふうに感じていてくれたのか。
ありがたいことである。
うれしいことである。
といっても、私はべつに、冬木さんをよろこばせようと思って、縄を解くときにも、縛るときと同じように、心をこめて解いているわけではない。
縛るときも、解くときも、だれに対しても、「縄」を扱うときの私の気持ちは同じである。
撮影の現場で、縄で縛ったり、解いたりをくり返し、そして最後に、解いた縄を束ねて自分のバッグの中に、一束一束かぞえながらおさめるまで、私は「緊縛快楽」の世界に浸っている。
冬木さんは、私のそんな行為とか状態を、縄を愛(め)でていると感じてくれたのだ。
が、この程度のことで縄を愛でていることになるのだったら、私は年がら年じゅう縄を愛でていることになる。
たしかに、セックスするのが目的で、女を縛るのだったら、挿入して、射精して、欲望をとげたら、男は力がぬけてしまうのは当然であろう。縄を解くことなんか、めんどくさくなる。
私が最後の縄を解くまで、心をゆるめることがないのは、セックスが目的ではないからである。
自分の手で縛った女体が、我を忘れて快楽に身をふるわせ、羞恥の心をさらけだして、はしたない快楽にもだえ狂う姿を、見たいがゆえの緊縛だからである。
おのれの肌身に食い込み、手足の自由を奪っていた縄が、すこしずつ解き放たれていくときの女体の表情に浮かんで漂う、妖しい魅力をたたえた形容しがたい官能愉悦の色。
それを見届けるのも、女体緊縛の底知れぬ快楽の一つなのである。
その快楽を心ゆくまで味わいたいがゆえに、私は縄を愛でながら、心をこめてしずかに解いていくのである。
そしてこのとき、冬木さんのような鋭敏な感受性を持つ女性は、私の縄が放つ微妙な呼吸に同調し、反応して、さらに被虐の心をふるわせるのである。
要するに、緊縛快楽というものの奥の深さは、ラストの縄を解くときにも、たいせつな「見せ場」があるということだ。
その重要な「見せ場」を、私はいい加減な気持ちで演出するような、愚かなまねはしない。
女体にみっちりと食い込んでいる縄を、思いをこめて剥がしていく。
縛るときと同じ快感が、解くときにもあるのだ。
つい先日、またまた雇われて、あるAV系の「SMビデオ」の撮影現場に行った。
私が女優を縛ると、男優がその女優をベッドの上に運び、両足をひらかせ、いつものように、前から後ろから、横から斜めから犯しまくった。
そういう挿入シーンばかりが、延々二時間つづいた。女優が絶叫し、巧みな演技で尻をけいれんさせると、
「はい、カット!」
監督の声がかかる。カメラマンはただちにカメラのスイッチを切る。数人のADが、虫の死骸に群がるアリのように彼女の体に手をのばし、縄を解く。縄を愛でる思いも何もあったものではない。情感も情緒もなく、きわめて事務的に縄を解く。私は黙って眺めているだけ。AV系の「SMビデオむとは、大体こんなものである。
ありがたいことである。
うれしいことである。
といっても、私はべつに、冬木さんをよろこばせようと思って、縄を解くときにも、縛るときと同じように、心をこめて解いているわけではない。
縛るときも、解くときも、だれに対しても、「縄」を扱うときの私の気持ちは同じである。
撮影の現場で、縄で縛ったり、解いたりをくり返し、そして最後に、解いた縄を束ねて自分のバッグの中に、一束一束かぞえながらおさめるまで、私は「緊縛快楽」の世界に浸っている。
冬木さんは、私のそんな行為とか状態を、縄を愛(め)でていると感じてくれたのだ。
が、この程度のことで縄を愛でていることになるのだったら、私は年がら年じゅう縄を愛でていることになる。
たしかに、セックスするのが目的で、女を縛るのだったら、挿入して、射精して、欲望をとげたら、男は力がぬけてしまうのは当然であろう。縄を解くことなんか、めんどくさくなる。
私が最後の縄を解くまで、心をゆるめることがないのは、セックスが目的ではないからである。
自分の手で縛った女体が、我を忘れて快楽に身をふるわせ、羞恥の心をさらけだして、はしたない快楽にもだえ狂う姿を、見たいがゆえの緊縛だからである。
おのれの肌身に食い込み、手足の自由を奪っていた縄が、すこしずつ解き放たれていくときの女体の表情に浮かんで漂う、妖しい魅力をたたえた形容しがたい官能愉悦の色。
それを見届けるのも、女体緊縛の底知れぬ快楽の一つなのである。
その快楽を心ゆくまで味わいたいがゆえに、私は縄を愛でながら、心をこめてしずかに解いていくのである。
そしてこのとき、冬木さんのような鋭敏な感受性を持つ女性は、私の縄が放つ微妙な呼吸に同調し、反応して、さらに被虐の心をふるわせるのである。
要するに、緊縛快楽というものの奥の深さは、ラストの縄を解くときにも、たいせつな「見せ場」があるということだ。
その重要な「見せ場」を、私はいい加減な気持ちで演出するような、愚かなまねはしない。
女体にみっちりと食い込んでいる縄を、思いをこめて剥がしていく。
縛るときと同じ快感が、解くときにもあるのだ。
つい先日、またまた雇われて、あるAV系の「SMビデオ」の撮影現場に行った。
私が女優を縛ると、男優がその女優をベッドの上に運び、両足をひらかせ、いつものように、前から後ろから、横から斜めから犯しまくった。
そういう挿入シーンばかりが、延々二時間つづいた。女優が絶叫し、巧みな演技で尻をけいれんさせると、
「はい、カット!」
監督の声がかかる。カメラマンはただちにカメラのスイッチを切る。数人のADが、虫の死骸に群がるアリのように彼女の体に手をのばし、縄を解く。縄を愛でる思いも何もあったものではない。情感も情緒もなく、きわめて事務的に縄を解く。私は黙って眺めているだけ。AV系の「SMビデオむとは、大体こんなものである。
2009/06/29
134・肉筆のぬくもり
沢戸冬木さんから、お手紙をいただいた。
電子符号を羅列した文章ではなく、ご自分の手でしっかりと書かれた肉筆の手紙である。
電子符号の場合は、たとえば「、」を打つのに、指先でチ軽くョンと押せば「、」はスッと浮かび上がってくるが、肉筆の場合は「、」ひとつ書くのも、手の指の先に思いをこめないと「、」という字にならない。
「、」ひとつ書くのにも、上手と下手がある。
電子符号で浮かび上がらせる「、」には、上手も下手もないだろう。
A子が打った「、」も、B子が打った「、」も、同じ形に、無個性、無感動のまま、浮かび上がるにちがいない。
ここに、精巧に作られたロボット人間があって、このロボットが、器用に手の指を動かし、縄をしごいて、女体を縛る。
縛られる女体のほうは、生きている人間である。
ロボットの「縄師」が、どんなに巧妙に縄を操作して女体を縛ったとしても、やはり、人間の手には、かなわないだろうと思う。
ロボットの手による「縛り」も、人間の「縄師」による「縛り」と同じだ、と思う人は、まず、いないだろう。
快楽を目的にした女体縛りなんてものは、考えてみれば、究極のアナログ作業である。(逆に、拷問我慢大会的な、ただ女体を痛めつけるだけの緊縛の場合の責め手は、無表情無感動のロボットのほうが、効果的かもしれない)
パソコンによる電子文字と、ロボット人間が縄を持って女体を縛る行為を一緒にするのは、私の考え過ぎかもしれないが……。
ま、そんなことはともかく、冬木さんからいただいた手紙は、便箋五枚にていねいに、手書きの文字がぎっちりと書かれて、封筒に入れられ、八十円の切手が貼られて郵送されてきたのだ。
この手紙は、一瞬のうちに移動してきたものではない。
長い時間を費やし、数人の人間の手から手へ注意ぶかく渡される旅をして、私の手にたどりついたのだ。封筒の裏表に、多くの人間たちのぬくもりを感じる。
そして、この封筒の表と裏に、住所と名前がていねいに肉筆の文字で書かれているのを見ると、
「やあ、こんにちは。よくいらっしゃいました」
口に出して、あいさつしたくなる。
冬木さんから郵送していただいたこの手紙の中身が、さらに私をうれしい気持ちにさせてくれた。
「……先生の縄を一日中、肌と心で感じながら、これだけはお伝えしたいと思ったことがあります。
それは縄をかける時だけでなく、解く時の鮮やかさ、一文たりとも狂わすことのない素晴らしさでした。
”術”はもちろんのことですが、先生ご自身が本当に縄を愛でる想いがなければ、私も感じることなど出来ない類のものだと思いました。
といいますのも、よく一般にいわれる『拘束してセックスするのが目的』であれば、縛るときは意気揚々としていても、解くときは面倒でしかないと思うからです。
それは、どれだけ的確に俊敏に解かれたとしても、やはり相手のその感情が伝わってくるものです」
電子符号を羅列した文章ではなく、ご自分の手でしっかりと書かれた肉筆の手紙である。
電子符号の場合は、たとえば「、」を打つのに、指先でチ軽くョンと押せば「、」はスッと浮かび上がってくるが、肉筆の場合は「、」ひとつ書くのも、手の指の先に思いをこめないと「、」という字にならない。
「、」ひとつ書くのにも、上手と下手がある。
電子符号で浮かび上がらせる「、」には、上手も下手もないだろう。
A子が打った「、」も、B子が打った「、」も、同じ形に、無個性、無感動のまま、浮かび上がるにちがいない。
ここに、精巧に作られたロボット人間があって、このロボットが、器用に手の指を動かし、縄をしごいて、女体を縛る。
縛られる女体のほうは、生きている人間である。
ロボットの「縄師」が、どんなに巧妙に縄を操作して女体を縛ったとしても、やはり、人間の手には、かなわないだろうと思う。
ロボットの手による「縛り」も、人間の「縄師」による「縛り」と同じだ、と思う人は、まず、いないだろう。
快楽を目的にした女体縛りなんてものは、考えてみれば、究極のアナログ作業である。(逆に、拷問我慢大会的な、ただ女体を痛めつけるだけの緊縛の場合の責め手は、無表情無感動のロボットのほうが、効果的かもしれない)
パソコンによる電子文字と、ロボット人間が縄を持って女体を縛る行為を一緒にするのは、私の考え過ぎかもしれないが……。
ま、そんなことはともかく、冬木さんからいただいた手紙は、便箋五枚にていねいに、手書きの文字がぎっちりと書かれて、封筒に入れられ、八十円の切手が貼られて郵送されてきたのだ。
この手紙は、一瞬のうちに移動してきたものではない。
長い時間を費やし、数人の人間の手から手へ注意ぶかく渡される旅をして、私の手にたどりついたのだ。封筒の裏表に、多くの人間たちのぬくもりを感じる。
そして、この封筒の表と裏に、住所と名前がていねいに肉筆の文字で書かれているのを見ると、
「やあ、こんにちは。よくいらっしゃいました」
口に出して、あいさつしたくなる。
冬木さんから郵送していただいたこの手紙の中身が、さらに私をうれしい気持ちにさせてくれた。
「……先生の縄を一日中、肌と心で感じながら、これだけはお伝えしたいと思ったことがあります。
それは縄をかける時だけでなく、解く時の鮮やかさ、一文たりとも狂わすことのない素晴らしさでした。
”術”はもちろんのことですが、先生ご自身が本当に縄を愛でる想いがなければ、私も感じることなど出来ない類のものだと思いました。
といいますのも、よく一般にいわれる『拘束してセックスするのが目的』であれば、縛るときは意気揚々としていても、解くときは面倒でしかないと思うからです。
それは、どれだけ的確に俊敏に解かれたとしても、やはり相手のその感情が伝わってくるものです」
2009/06/18
133・せまくて細い道
梅原猛氏のエッセイの要点を、もうすこし紹介させていただく。
「……狂気に偏るとき、人間は滅びるが、創造的狂気を失った芸術家は、つまらない作品しか作れない。そのような芸術家は、つまらない自己の作品をあたかもすぐれた作品であるかのように見せかけて売る商人になるより仕方がない。そういう偽商品を売る商人になることを拒否して、作品をほとんど書かずに安定した晩年を送った志賀直哉に、私はある種の尊敬を覚える。
私自身は五十年間、狂気と正気の間の狭い道を歩いてきたと思うが……(以下略)」
梅原猛氏は「正気と狂気の間の狭い道を歩いてきた」と書かれているが、私の場合は、ただ狭いだけではなく、権力者たちからの圧力と、迫害と、それに加えて、世間一般の常識人たちからの蔑視や忌避によって、そのせまい道は、さらにせまく細く歩き難くなっている。
(発売禁止命令は、歩き難いどころか、歩行禁止である)
しかし、その細い道を、どうにかこうにかここまでやってこられたのは、「狂気」を「売り」の主体としていても、やはり常に「正気」にもどり、その「正気」の自分で確認してきたからであろう。
芸術でも芸能でも、私のような芸術商売屋でも、「狂気」と同時に、「正気」の部分をはっきり維持していないと成り立たない。
「狂気」を「正気」として認識する知的な「正気」があるからこそ、「狂気」が芸術的な香気を発し、存在価値が生じるのであろう。
わかりやすく単純にいってしまえば、「正気」と「狂気」のバランスがたいせつ、ということである。
だが、ビョーキになり、ビョーニンになってしまうと、「正気」が衰え、「狂気」の部分だけが、でかい顔をしてのさばって、破滅へと向かわざるを得ない。
「悲願」撮影のとき、冬木さんが、私たち緊美研のスタッフのために、家から稲荷寿司と玉子焼きを、たくさんつくって持ってきてくれた。
三段重ねの立派な重箱の中にぎっしり入っている。手に持つと、かなり思い。
朝早く起きて台所に立ち、自分でつくったものだと言う。そして、
「スタッフのみなさんに召し上がっていただきたかったから」
これには、びっくりしたなあ。
濡木痴夢男の縄を、手に握らせただけで全身をこまかくふるえさせる冬木さんにとって、これはまさしく「正気」の面であろう。
この「正気」がある限り、私は安心して彼女を縛り、責めつづけることができる。
(べつにまた稲荷寿司が食べたいから、こんなことを書いているわけではないよ。笑。)
かなり以前のことだが、緊美研の例会が終わってからも、帰らないモデルがいた。
北海道で、教職についている女性であった。私の行く先々にまとわりついた。
緊美研の例会の翌日には、シネマジックの撮影があった。その翌日には大洋図書ビデオの撮影があった。
その撮影現場にも、彼女は居すわりつづけた。縛って、部屋の片隅に転がしておいてくれと言う。邪魔であり、迷惑なこと、この上ない。
ついに私は怒鳴りつけ、無理やり帰した。
撮影現場の暗い片隅にうずくまったまま動かない彼女の姿は、まさしく狂気のものがあった。正直いって、こわかった。これに類したことを、私は何度か経験している。「狂気」と「正気」のバランスが崩れるとこわい。
「……狂気に偏るとき、人間は滅びるが、創造的狂気を失った芸術家は、つまらない作品しか作れない。そのような芸術家は、つまらない自己の作品をあたかもすぐれた作品であるかのように見せかけて売る商人になるより仕方がない。そういう偽商品を売る商人になることを拒否して、作品をほとんど書かずに安定した晩年を送った志賀直哉に、私はある種の尊敬を覚える。
私自身は五十年間、狂気と正気の間の狭い道を歩いてきたと思うが……(以下略)」
梅原猛氏は「正気と狂気の間の狭い道を歩いてきた」と書かれているが、私の場合は、ただ狭いだけではなく、権力者たちからの圧力と、迫害と、それに加えて、世間一般の常識人たちからの蔑視や忌避によって、そのせまい道は、さらにせまく細く歩き難くなっている。
(発売禁止命令は、歩き難いどころか、歩行禁止である)
しかし、その細い道を、どうにかこうにかここまでやってこられたのは、「狂気」を「売り」の主体としていても、やはり常に「正気」にもどり、その「正気」の自分で確認してきたからであろう。
芸術でも芸能でも、私のような芸術商売屋でも、「狂気」と同時に、「正気」の部分をはっきり維持していないと成り立たない。
「狂気」を「正気」として認識する知的な「正気」があるからこそ、「狂気」が芸術的な香気を発し、存在価値が生じるのであろう。
わかりやすく単純にいってしまえば、「正気」と「狂気」のバランスがたいせつ、ということである。
だが、ビョーキになり、ビョーニンになってしまうと、「正気」が衰え、「狂気」の部分だけが、でかい顔をしてのさばって、破滅へと向かわざるを得ない。
「悲願」撮影のとき、冬木さんが、私たち緊美研のスタッフのために、家から稲荷寿司と玉子焼きを、たくさんつくって持ってきてくれた。
三段重ねの立派な重箱の中にぎっしり入っている。手に持つと、かなり思い。
朝早く起きて台所に立ち、自分でつくったものだと言う。そして、
「スタッフのみなさんに召し上がっていただきたかったから」
これには、びっくりしたなあ。
濡木痴夢男の縄を、手に握らせただけで全身をこまかくふるえさせる冬木さんにとって、これはまさしく「正気」の面であろう。
この「正気」がある限り、私は安心して彼女を縛り、責めつづけることができる。
(べつにまた稲荷寿司が食べたいから、こんなことを書いているわけではないよ。笑。)
かなり以前のことだが、緊美研の例会が終わってからも、帰らないモデルがいた。
北海道で、教職についている女性であった。私の行く先々にまとわりついた。
緊美研の例会の翌日には、シネマジックの撮影があった。その翌日には大洋図書ビデオの撮影があった。
その撮影現場にも、彼女は居すわりつづけた。縛って、部屋の片隅に転がしておいてくれと言う。邪魔であり、迷惑なこと、この上ない。
ついに私は怒鳴りつけ、無理やり帰した。
撮影現場の暗い片隅にうずくまったまま動かない彼女の姿は、まさしく狂気のものがあった。正直いって、こわかった。これに類したことを、私は何度か経験している。「狂気」と「正気」のバランスが崩れるとこわい。
2009/06/17
132・狂気と正気
私はけっして病人を軽蔑したり、卑下したりするものではない。
私自身が長いあいだ、病気と共に生きてきている。ただ、私はそれを人には言わない。
人に言って、口先だけで同情されても、どうにもならないことを知っている。
病人を軽蔑したり嫌ったりはしないが、自分の病気を、ことさら多くの人に言いたてて理解を得ようとか、同情をひこうとかするビョーニンのことは、どうしても好きになれない。
私のこういう性格に対して反論はあるだろうが、なんといわれても好きになれない。嫌いなのだから、仕方がない。
理解しろと言われても、そういうビョーニンの心を、私は理解することができない。
私にはそういう広い心はない。宗教家のような「愛」の心はない。きわめて狭量な人間である。
私はビョーキです。ビョーニンだからわかってちょうだい、としきりに言うビョーニンのことを、好きにはなれないが、やむをえず、つきあうことはある。
こういう仕事をしている以上、それは仕方がない。だが、どうしても好きにはなれない。好きになれないことが、私のビョーキなのかもしれない。
自分の病気を他人に訴えたりせず、自分だけで勇気をもって闘って、ひたすら前向きに生きている人、生きようとしている人は、好きである。
バカみたいに体だけ健康な人間よりも、よっぽど好きである。
(大きな声では言えないが、したがって私はスポーツマンみたいな健康人間が、大ッ嫌いである)
東京新聞の文化欄に、哲学者の梅原猛氏がエッセイを連載しておられ、私も愛読者の一人である。
先日、「常識破る狂気と正気」と題して、こういう文章が載っていた。
共感するところが多かったので、その要意をここに紹介させていただく。
「……私は常々、芸術家は一生、正気と狂気の間の狭い道を歩かざるを得ない人間であると語っている。芸術家は創造する人間であるが、すぐれた芸術の創造には常識を破る狂気が必要である。私の敬愛するニーチェにも、ドストエフスキーにも、川端康成にも、太宰治にも、村上華岳にも、岡本太郎にも狂気があった。狂気によって芸術家は常識に安住する芸術界の風潮に対してNOと言い、常識を破る新しい自己の芸術を創造するのである。」
と、おっしゃる。
まったく、このとおりである。
私は、私自身のことを芸術家だなんて、さらさら思っていないが、「芸術商売」をやってこれまで糊口をしのいできたことは確かだ。
なので、梅原猛氏のおっしゃることは、よく理解できる。
いってしまえば、われわれは「狂気」を売る商売人なのである。私なんかは、とくに「狂気」の部分でメシを食ってきた。「狂気」の部分が衰えると、メシが食えなくなる。
梅原猛氏の文章を、もう少し紹介させていただく。
「……しかし芸術家は狂気のみでは生きられない。自己の狂気を冷静に見つめる正気がまた必要なのである。そしてその正気によって芸術家は自分の作品を冷静に見つめるとともに破滅を免れ、自己の人生の安定を保つ。」
つまり、こういう文章を書いているのが、濡木痴夢男の「正気」の時なんでしょうね。
2009/06/16
131・大切なのはやはり心
こういう仕事を何年もつづけていると(かぞえてみると、もう六十年になるのですよ、六十年!)いわゆる「マニア」と呼ばれている人と、たくさん知り合うようになる。
マニアの人たちと知り合い、つきあうことが、私の仕事だったともいえる。
マニアには、男もいるし、女もいる(あたりまえだ)。
だが、あらゆるマニアの人たちと、長く親しくおつきあいしてきた、というわけではない。
この人とはもうつきあえない、つきあっているとこっちがビョーキになる、早くサヨナラしたほうがいい、と思ったときには、さっさと別れる。
相手がどんなに美人であっても、さっさと別れる。
危険を感じたら、私ははっきりと断絶する。私は中途半端なことをしない。未練というものがない。
そういう人とは、完全に絶交する。
私にとっての「SM」は、快楽のためだけにある。(だれだってそうだろうと思うが)。
快楽にならない「SM」はしない。
快楽を与えてくれない人とは、おつきあいしない。
たとえば、冬木さんの場合でも、撮影中に本当に刃物を持って、自分の腹にグサリと突き立てるような人だったら、さっさと別れる。前にも書いたが、それは私にとって迷惑行為であり、妄想の快楽、芝居心を持たない人間の狂気だからである。
クスリをのまなければならないビョーニンのような人とは、私はつきあいたくない。
つめたいようだが、その種の人とつきあう慈悲心みたいなものの持ち合わせは、私にはない。
病人の場合は、これはある程度仕方がないと思うが、私にはその種の病気のケがないので同情心もわかない。
(私は親代々浅草生まれの浅草育ちで、軽薄きわまる無責任人間で……あ、これは前にもう何度も書いているか。失礼!)
いまの世の中、だれだって病気になる。
病気になるのは仕方がないとしても、その病気を、パソコンとかのブログを使って、自分のビョーキをやたらに他人に訴えて聞かせ、そのためのクスリを自分ものんでいる、などと得意げになって、同情を求めるような、甘ったれた人間とは、私はつきあいたくない。
私は自分の病気を他人にしゃべったことなど、一度もない。しゃべったところで、心から同情してくれる人なんか一人もいないことがわかっているからだ。
自分のビョーキを、甘ったれた気持ちで、他人にあれこれブログなんかで訴えるような知性の低い、理性のない人間は、はっきり言って私は嫌いである。
ビョーニンを縛って責めてみたところで、おもしろくもなんともない。
ビョーニンは、縛る前からビョーニンである。
理知的で気位が高く、毅然とした美人が、「縄」によって正気を乱し、淫らにくずれていくところに、「SM」の妙味があるのではないか。
「さるぐつわ、美人ばかりが、噛まされる」
という川柳がある。
ブスにさるぐつわを噛ましたところで、おもしろくもなんともない。この場合のブスというのは、もちろん、心のブスのことである。顔や姿かたちのことではない。念のために書いておく。私は顔や姿よりも、やはり心のほうをたいせつにする。
2009/06/15
130・破滅型は嫌いです
前回の例会のとき、私の「縄」に対する冬木さんの凄烈な、そして美しい反応を見て、シズちゃんは、
「もうこれ以上凄いものは見られないでしょう」
と感嘆した。そのとき私は、
「いやいや、きょう冬木さんが見せてくれた魅力は、彼女のせいぜい十分の一程度だよ。まだまだ、あと十分の九はあるよ」
と答えた。
そして、十分の九どころではないかもしれない、と心の中で思った。
今回の「悲願」撮影のときの彼女の反応を見ていると、私の「縄」に、そして、私の「責め」に、無限にのめりこんでいくような気がしたのだ。
それは私にとってありがたい、うれしいことに違いないのだが、また同時に、注意しなければならないことでもある。
無限の快楽はいいのだが、その果てが「破滅」になってしまってはいけない。
私のほうが注意して、理性による手加減をしなければならない。
快楽が破滅になってしまっては、快楽にならない。快楽は快楽として、あくまでも快楽の感覚内でいないと快楽にはならない(なんだか早口言葉みたいになってしまったけど)。
だが、ありがたいことに、彼女はすぐれた理性と知性の持主なので、そのへんは十分に心得ているはずである。
(彼女は肉筆で何度も私のところへ手紙を郵送してくれている。そのペン字の美しさと、そして格調の高い文章が、彼女の理性を証明している。こういう自筆の文章を、私は最も信用する)
今後、私に多少ゆきすぎの「責め」があるかもしれないが、彼女には破滅型になってもらいたくない。
はっきりいって、私は破滅型の女は、嫌いである。私は、破滅型を快楽とはしない。
私の愛用の「責め棒」の、とがっているほうを逆手に握って、自分の腹部の中に突き立て、ぐりぐり、えぐったり、かきまわしたりしているうちに興奮してきて、髪の毛をふり乱し、
「本物の刃物が欲しい!」
とうめき叫ぶところまではいい。
そこまではたいへんに快楽的で、とてもいい。見ていて興奮する。凄い迫力であった。
ここまでのめりこんで陶酔しなければ、とても快楽とはいえない。
だが、夢中になりすぎて、本物の刃物を自分の腹部に突き立てるようなところまでは、絶対にしないでもらいたい。
ニセの刃物を握って、妙に芝居がかって、演技っぽくやられるのは、見ていて全然おもしろくなく、シラケるだけだが、本物の刃物で実際に切腹されたら、やっぱり困る。おそろしい。
見ていて興奮するどころか、あわてて救急車を呼ぶ事態になるのは困る。快楽にならない。
「腹肉なぶり」で、いま思い出したのだが、「悲願」の中の、縄によるウエスト極限絞りは、これまでにない凄いものであった。
「きょう一番印象に残ったのは、あのウエスト絞りです。縄が食いこんで、おなかの肉がちぎれるかと思った」
と、シズちゃんが目玉を丸くして言った。
私は、じつは駒井成人氏のお手紙の文面と一緒に、緊美研の古い会員である枷井克哉氏を思い出して、この腹肉なぶりをやったのだ。枷井さんにまた来てもらいたい。だが、彼は前立腺がんで、いま入院中なのである。
「もうこれ以上凄いものは見られないでしょう」
と感嘆した。そのとき私は、
「いやいや、きょう冬木さんが見せてくれた魅力は、彼女のせいぜい十分の一程度だよ。まだまだ、あと十分の九はあるよ」
と答えた。
そして、十分の九どころではないかもしれない、と心の中で思った。
今回の「悲願」撮影のときの彼女の反応を見ていると、私の「縄」に、そして、私の「責め」に、無限にのめりこんでいくような気がしたのだ。
それは私にとってありがたい、うれしいことに違いないのだが、また同時に、注意しなければならないことでもある。
無限の快楽はいいのだが、その果てが「破滅」になってしまってはいけない。
私のほうが注意して、理性による手加減をしなければならない。
快楽が破滅になってしまっては、快楽にならない。快楽は快楽として、あくまでも快楽の感覚内でいないと快楽にはならない(なんだか早口言葉みたいになってしまったけど)。
だが、ありがたいことに、彼女はすぐれた理性と知性の持主なので、そのへんは十分に心得ているはずである。
(彼女は肉筆で何度も私のところへ手紙を郵送してくれている。そのペン字の美しさと、そして格調の高い文章が、彼女の理性を証明している。こういう自筆の文章を、私は最も信用する)
今後、私に多少ゆきすぎの「責め」があるかもしれないが、彼女には破滅型になってもらいたくない。
はっきりいって、私は破滅型の女は、嫌いである。私は、破滅型を快楽とはしない。
私の愛用の「責め棒」の、とがっているほうを逆手に握って、自分の腹部の中に突き立て、ぐりぐり、えぐったり、かきまわしたりしているうちに興奮してきて、髪の毛をふり乱し、
「本物の刃物が欲しい!」
とうめき叫ぶところまではいい。
そこまではたいへんに快楽的で、とてもいい。見ていて興奮する。凄い迫力であった。
ここまでのめりこんで陶酔しなければ、とても快楽とはいえない。
だが、夢中になりすぎて、本物の刃物を自分の腹部に突き立てるようなところまでは、絶対にしないでもらいたい。
ニセの刃物を握って、妙に芝居がかって、演技っぽくやられるのは、見ていて全然おもしろくなく、シラケるだけだが、本物の刃物で実際に切腹されたら、やっぱり困る。おそろしい。
見ていて興奮するどころか、あわてて救急車を呼ぶ事態になるのは困る。快楽にならない。
「腹肉なぶり」で、いま思い出したのだが、「悲願」の中の、縄によるウエスト極限絞りは、これまでにない凄いものであった。
「きょう一番印象に残ったのは、あのウエスト絞りです。縄が食いこんで、おなかの肉がちぎれるかと思った」
と、シズちゃんが目玉を丸くして言った。
私は、じつは駒井成人氏のお手紙の文面と一緒に、緊美研の古い会員である枷井克哉氏を思い出して、この腹肉なぶりをやったのだ。枷井さんにまた来てもらいたい。だが、彼は前立腺がんで、いま入院中なのである。


